一日一言の魂

古今東西の心に残る言葉や名言・格言・名台詞・諺・新語・一日一言などを学び新しい生き方を目指しています。

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『この世に生を受けたこと、それが最大のチャンスじゃないか』アイルトン・セナ F1レーサー

☆彡今日の一日一言

 

『この世に生を受けたこと、それが最大のチャンスじゃないか』

アイルトン・セナ F1レーサー

 

1985年4月21日、ブラジル出身の天才的F1レーサー、アイルトン・セナポルトガルグランプリで優勝を飾った。

 

前年トールマンからF1デビューしてからわずか16戦目の快挙であり、雨の中、全周回1位の文句なしの初勝利だった。

 

アイルトン・セナロータスルノーに移籍したばかりだった。

 

ロータスはトラブルは多いもののハンドリングに優れ、悪条件の中でアイルトン・セナの技術が光ったレースだった。

 

 この初勝利から10年間にアイルトン・セナは優勝41回、ワールドチャンピオン3回、ポールポジション65回という輝かしい成績を残す。

 

 しかし、1994年5月1日、人気絶頂のアイルトン・セナを突然の悲劇が襲った。

 

サンマリノ・グランプリ7周目の高速コーナー「タンプレロ」でコントロールを失ってコースアウトし、ウォールに激突して帰らぬ人となった。

 

 

心に響く365の名言とエピソード (宝島SUGOI文庫)

心に響く365の名言とエピソード (宝島SUGOI文庫)

 

 


以上は 晴山陽一著 心に響く365の名言とエピソード より一部抜粋


アイルトン・セナ
アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva, 1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジル人の元レーシング・ドライバー。F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。

フルネーム アイルトン・セナ・ダ・シルバ
国籍  ブラジル
出身地 サンパウロ州サンパウロ
生年月日 1960年3月21日
死没地  イタリア 同・ボローニャ
没年月日 1994年5月1日(34歳没)

◆人物
時代を代表するドライバーの1人とされ、特に計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位だった。アラン・プロストネルソン・ピケナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。特にプロストとのライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」などと呼ばれた。

異名には「Genius(天才)」「マジック・セナ」などがあり、若手時代には「ハリー」の愛称でも呼ばれた。日本では、古舘伊知郎が実況中継で使用した「音速の貴公子」がよく知られている。

母国ブラジルにおいては、サッカー選手のペレ、ジーコと並んで、特に偉大なスポーツ選手の1人とされている。イギリス「F1 Racing」誌においては、「史上最速のF1ドライバー」「史上最高のF1ドライバー」に共に1位で選出された。

パーソナルデータ
利き手は左。
血液型はRh+B型。
趣味のひとつに、ラジコンの飛行機やヘリコプターがある。市販のものを購入し、独自に改造も行うほど。日本の友人から日本製の製品も多く受け取り熱中していた。
コーヒーが苦手と語っている。「ブラジル人ながらコーヒーが苦手なのは僕くらいかも知れない」とも語っている。
オフには故郷のプライベートアイランドで水上オートバイを楽しんだ。1991年のシーズン中に水上オートバイの事故に遭い、後頭部を縫う怪我を負った。

◆事故死
迎えた第3戦サンマリノGPは、開幕戦、第2戦共にノーポイントでの結果で終わったセナは「ここが自らの開幕戦」と誓い、レースに臨んでいった。

しかし予選からそんなセナの気合に冷水をかける重大事故が多発する。まず予選1日目、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送された。
結果的には鼻骨を骨折という軽傷であったものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であった。

そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことだった。

これら一連のアクシデントの中でセナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。ただし、夜には落ち着きを取り戻し、「心配しなくていい、僕はとっても強いんだ」と語っていたという。

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